(メルロポンティ「知覚の現象学」著書の中から・・・)
連合なるものは、そもそも、「感覚的に与えられているものの相貌によってみちびかれる」
「じっさいには、知覚された世界はつねに相貌的に、つまりはなんらかの表情をもって与えられており、個々の対象もまたそうである。」
「私は全て行ってきました」
30代がん患者であり医療者である女性に2回目の施術を行いこの言葉が気になった。
部屋には研修中の認定看護師が傾聴のためにいたが、施術と交代で今回は入る形をとった。
彼女の顔の近くに行き数分話すと、彼女は、パジャマをめくり硬くしこりになっている腹部を見せ、私がその箇所に触れることを希望した。
硬いしこりわずかな違和感。
触れられること、その事は彼女にとっての緊張の解除の体験。
触れられている私を感覚するとは「今」という生命的な価値を付与することであり「私の身体」という存在を知覚し認識し実感すること。
触れられている間の彼女は目を閉じ会話は無い。
その姿は心穏やかに、しばし何かを感じているそぶりに見え思える。
身体こそがみずからを示し、身体こそがみずから語ることを、知覚を通し問いたい「内なる姿」なのかもしれない。
香りによる好みを聞く際「前回先生が使用したアロマはユーカリでした」と前回体験し知覚した感覚は相貌として彼女の記憶にあり、そしてその対象として施術者があり、その先にあるとされる体験にすでに向かう様子に私には見え思えた。
施術を体験することは彼女にどのような変化をもたらすのだろうか。
彼女の感覚や知覚の次元での、彼女の言う前回の効果の例を感じたことだけなのであろうか。効果だけが問題なのであろうか。
そうではない。
「知覚を問うことは身体を問題とすることであり、あらためて身体を問いかえすことが知覚を問いなおすことであるかぎり、両者はおなじひとつの問題の両面であるということもできる。」
効果だけを彼女が観ているのであれば施術を早速行って欲しいとなるだろう。
だが施術に入る際、前にそして今回行う施術箇所である足ではなく、癌の箇所に近い身体の箇所に施術者の手を持っていく姿となったのは、状況がどんどん悪くなっていく身体を問い直すことであり、問い直すことに入り行くための緊張の解除であり、安心してその世界の内に入っても良いと自分で決めるためのしぐさだったのではないか。
彼女のその自然的態度には安心と受容と自律の姿がふくまれている。
そのことは自らが自らのQOLを獲得しようとする、安心の中で行われるベッド上の静かな戦いの姿なのかもしれない。
しばらくして彼女がゆっくり目を開けたので施術者は静かに手を腹部から離した。
そしてその後の彼女の言葉が印象的だった。
「通常に西洋医学のことは全て行ってきました。」
腰元にあった闘病本と比較し「私はいろいろ医師や方法を探しはしなかった。」と悲観ではなくいう言葉であり姿だった。
セラピスト・アロマ(香り)・施術、全ては相貌である。
彼女が知覚する相貌の中に世界があり、その中の問いに向かう際で知覚される存在であり道具である。
施術はQOLを支える方法論のひとつだが、QOLとは与えられる中に得るものではなく、すでに自身が自律の中に得ているものであり、自律が発生した時すでに相貌として発生しているものなのではないかと、今回彼女から教わった気がする。
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